五千円札って、どんな人物が描かれているのでしょうか。
五千円札の歴代に遡ってみますので、ご覧になってください。
その人物のエピソードにも迫ってみます。
五千円札の人物を歴代〜現在まで並べてみた!
では、五千円札の人物を古い順に並べてみましょう。
★第一回目:聖徳太子(C号券)
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発行期間:1957年10月1日発行~1986年1月4日発行停止
存命期間:574年~622年
何をした人なのか?
女性天皇だった推古天皇の補佐として、蘇我馬子と共に政治を行いました。
遣隋使を派遣して、積極的にその頃発展していた中国の文化を取り入れ、冠位十二階、十七条の憲法などの設定に尽力し、天皇中心の中央集権国家体制を目指し、仏教を積極的に取り入れ、神道とともに保護しました。
採用理由
お札に取り入れるための選考基準、ルールは定まったものはありません。
日銀と財務省、国立印刷局による協議が行われ、最後的な決定は日本銀行法に則り財務大臣です。
聖徳太子は百円札、千円札や一万円札にもなっているほど、国民の人気が高いので、財務大臣もOKを出したのでしょう。
裏面の雑学
裏側は日本銀行の建物です。
実は、初代内閣総理大臣の伊藤博文が採用された千円札の裏側もこの建物でした。
なので、もしかしたら表面の人物が政治家となると、政治に関係の深い日本銀行の建物を裏側に採用するのでしょうか。
これは、あくまでも筆者の予想です。
★第二回目:新渡戸稲造(D号券)
出典:https://upload.wikimedia.org/
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発行期間:1984年11月1日発行~2007年4月2日発行停止
存命期間:1862年~1933年
何をした人なのか?
教育者、思想家、農業経済学者であった新渡戸稲造は現在の岩手県である陸奥の国の藩士の家に生まれました。
9歳のころに、東京に住む叔父の養子になり、13歳で現在の東京大学である東京英語学校に入学したというのですから、賢い子供だったのでしょう。
しかし、稲造はこの後、明治天皇から「父と祖父を引き継いで農政に励んでほしい。」というお言葉を頂き、15歳で札幌農学校(現在の北海道大学)に入学しました。
実は新渡戸家は岩手県の開拓工事等に携わり、功績をあげ、1876年の明治天皇巡幸という地方訪問の際に天皇から直々にお褒めの言葉を頂いたとか。
由緒正しいお家だったのでしょう。
卒業後は北海道庁に勤めますが、さらなる学門と国際社会での活躍を夢見て、東京大学に進学、その後はアメリカ留学を果たし、アメリカ人の妻を娶ります。
さらにドイツに3年間留学して農業経済学の博士号を与えられ、帰国後は札幌の学校の教授になり、農業経済学のみならず、語学も教えていたようです。
在任中に過労で倒れてしまいましたが、この療養中に「武士道」を英語で書き上げ、それが各国語に訳されて、ベストセラーになりました。
何と、アメリカのルーズベルト大統領も読んでいたそうです。
やがて、下関条約により日本の統治下にあった台湾総督府で働き、サトウキビ生産等に関する「糖業改良意見書」を提出し、台湾財政の独立に貢献しました。
その後、京都帝国大学(現・京都大学)や東京帝国大学(現・東京大学)の教授を務めあげ、1920年、国際連盟設立の際に事務次長になり、第一次世界大戦の終結にも力を尽くしたそうですが、1933年、日本の国際連盟脱退から半年後にカナダで国際会議に日本代表で出席し、平和のためのスピーチを成功させたのちに亡くなりました。
戦争の影を恐れ、何とか日本に平和をと願っていた様です。
採用理由
この年から文化人がお札の人物の選考対象になったようで、上記の功績からも新渡戸稲造が上がったのではないでしょうか。
国際人としても活躍した新渡戸稲造です。
特に「武士道」で世界中に日本の良さを広めたという功績は大きかったのでしょう。
確かに、新渡戸稲造の肖像のある5000円札には地球儀もデザインされていますね。
裏面の雑学
裏面は逆さ富士です。
「湖畔の春」という写真家岡田紅葉の写真を基にして描かれているのですが、このように湖畔に富士山が映るという光景は年に1回か2回しかないということで、かなり珍しいということで価値ありなのでしょう。
★第三回目:樋口一葉(E号券)
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発行期間:2004年11月1日~現在に至る
存命期間:1872年~1896年
何をした人なのか?
実は樋口一葉はペンネームで、本名は樋口奈津(ひぐちなつ)です。
政府役人でサイドビジネスも手掛けるという教育熱心な父の元に生まれたので、小さい頃はかなりお金持ちでしたし、本好きな父の影響で沢山の本を読んで育ったようです。
私立青海学校の高等科第四級をトップクラスで卒業という才女でしたが、母の反対もあり上の学校に進学できませんでした。
当時は女に学問が不要という考え方が主流だったためでしょう。
しかし、ガッカリしている娘を気遣った父は「萩の舎」に入門させ、中島歌子のもとで和歌や古典文学を学ばせました。
そこで、一葉は実力を付けて行ったのですが、不幸なことに父や兄が次々と他界し、残されたのは父の借金でした。
一葉は母と妹のために17歳にして、生活を支えることになり、決まりかけた結婚話もだめになりました。
何と、夏目漱石との縁談話もあったようです。
一葉は「萩の舎」に住み込みで働きながら、小説を書くようになり、やがて小説家になるために大手新聞社の専属作家・半井桃水(なからい とうすい)の元で勉強することになりました。
20歳で「闇桜」を書き、念願の小説家デビュー。
そして、一葉の生活の面倒もみてくれたイケメンの半井桃水に恋心を抱きますが、当時の風潮から、恋愛に至ることはなく、半井桃水の元を去り、雑貨やを営みながら、小説を書きました。
やがて、一葉は半井が紹介してくれた出版社の大橋音羽に見いだされ、作家としての才能を開花させたのです。
1895年、吉原に住み、やがては遊女になる美登利とお寺の息子藤本信如 (ふじもとのぶゆき、しんにょ) の淡い恋について描かれた「たけくらべ」が掲載され、大ヒット。
当時の人気作家であった森鴎外(もりおうがい)から大絶賛され、一葉は人気作家になったのですが、残念なことに結核のために1896年24歳の若さで亡くなりました。
採用理由
1999年6月、男女共同参画社会基本法が制定されたという事もあり、次のお札は女性ということは決まっていました。
樋口一葉は女流小説家として、女性の地位向上に貢献した人物といえます。
そこで、名を残した文化人ということで、樋口一葉の肖像画が使われることになりました。
裏面の雑学
裏面は尾形光琳の「燕子花図」です。
この作品は国宝になっています。
総金地の六曲一双屏風に、濃淡の群青と緑青によって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その背後には『伊勢物語』第9段の東下り、燕子花の名所・八つ橋で詠じられた和歌がある。左右隻の対照も計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型紙が反復して利用されるなど、一見、意匠性が際立つが、顔料の特性をいかした花弁のふっくらとした表現もみごとである。筆者の尾形光琳(1658〜1716)は京都の高級呉服商に生まれ、俵屋宗達に私淑した。本作品は、江戸時代のみならず、日本の絵画史全体を代表する作品といって過言ではない。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145427より
表面が女性の肖像画ということで、このような燕子花をデザイン化したのでしょうか。
5千円札を大事にしよう
5千円札って、何となく微妙な存在で使いにくいですね。
1000円のように、ほいほい使えるものではないが、1万円ほどの価値はないというか、何となく中途半端な感じです。
でも、このような肖像画の人物のエピソードを知ると、大事に使おうと思えるのではないでしょうか。
何しろ、樋口一葉の14ヶ月の作家と言われる短い作家生活で命を削って、作品を生み出したのです。
こうした彼女の努力が女性の地位向上に、一役買ったことは言うまでもないでしょう。